大江の貝殻塚と大江山(262.8m)
宮島の南西部探索に参加しました
歩行距離約6km 標高差246m(大江山262.8m、広大16.8m) 歩行時間6時間20分
宮島と聞いて思い出される歴史のひとつに“厳島合戦(開戦1555年10月1日)”があります
鵯鳥越戦と桶狭間戦と共に 戦国時代の三大奇襲戦に数えられています
陶軍三万(厳島上陸は二万)人に対し毛利軍三千五百人が奇襲をかけ壊滅させました
逃げる陶の残党が潜み、夜の闇に紛れ掘った貝を持ち帰り、飢えをしのいでいたと伝えられる大岩を訪ねました
江戸時代までその時に捨てられた貝殻が残っていたため“大江の貝殻塚”と呼ばれています
広大理学部の宮島自然植物実験所から大江山を目指します
炭焼きの跡 (厳島合戦とは関わりはありません)
最後に少し急登があり、やかん鞍部に到着!休憩〜
行ってみて名前の由来が分かりました(笑)
やかん鞍部に荷物を置いて大江山をピストンします
ひとりが「トレーニングじゃ〜」と荷物を背負ったので
ほとんどの方が「では、私も〜♪」 と背負って登りました
山頂は木に覆われて展望は悪かったのですが、少し先に下ったところに開けた場所がありました
ヽ(*'0'*)ツ ワァオォ!! 大野瀬戸は牡蠣の筏がいっぱい
対岸の左奥が山口県(周防) 陶軍の残党もここに立ち援軍を探したことでしょう
でも見えたのは、この牡蠣筏を超す200とも300ともいわれる毛利軍(小早川・村上水軍)の船・・・
敗走する味方の船の多くは火を放たれて燃えていたことでしょう
孤立、迫る敵、飢え、望郷
陶晴賢は敗走中この山中で伊香賀隆正の介錯により自刃、その首は隠されました(享年35歳)
(伊香賀隆正ら重臣は後、刺し違えて自刃)
が、10月5日に捕らえられ命乞いをする草履持の少年により「大江の岩陰の隠し場所」は告白されます
下り終えてぶつかったT字路を大江の貝殻塚へと左折
すると・・・「ここからは心して通れ」 とセミの抜け殻が ぉお!!(゚ロ゚屮)屮
その中でも一際大きなこの岩の下に雨風をしのげる空間がありました
何故か、神聖な気持ちになりました
T字路まで戻りそのまま直進し、大江浦まで下ると そこからは海を見ながら ほぼ水平な道が続きます
広大に戻るちょっと手前に 室浜砲台跡があります(明治31年着工、大正15年廃止)
日露戦争に向けて、軍港の呉・広島湾を守るために作られました
このレンガ造りの建物は弾薬庫跡です
下関に砲台が出来たため使われることなく廃止となりました
厳島合戦の後、200年も平和が続いた江戸時代って、すごい
と思いつつ、なんだか悲しい人の世です(合掌)